1992年(平成4年)には、大学院の重点化による動物学、植物学、人類学の各大講座化と、それに続く1995年(平成7年)の生物科学専攻の創設に伴い、教官団は、植物園と臨海実験所を除いて大学院が本務となり、学部は併任となったが、学部の教育に変更があったわけではない。この生物科学専攻の創設は、生物学の各分科が独立を主張できた時代もあったが、現代生物学はむしろDNA情報に基づく統一化が特徴であることが、再統合の有力な理由である。一方では、生物の多様性とその生存原理を探ることの重要性が増しているにもかかわらず人材の育成が伴っていなかったことが、生物科学専攻にそのような分野の人材供給にこたえてほしいという要望に備えたのがもう一つの理由であった。その意味では、理学部生物学科の教育の方向もこれに併せて統合化に向け、21世紀に備えることが次の課題であろう。
日本における近代科学の本格的出発は1877年(明治10年)に東京大学が創立されて以来であるが、その時の法文理医の4学部の一つである理学部には当初より動物学・植物学教授がおかれ、それぞれモース(E.S.Morse)、谷田部良吉であった。近代化を急ぐ場合においてはしばしば実利的分野を優先しがちであるが、このような基礎的学問が置かれたことはまさに英断というべきであろう。ちなみに当初の理学部の教授の総数は15名で、その中には語学教授や後に工学部へ移動する領域も含まれていることから生物学の比重は大変重かったといえよう。また、人類学教授の誕生は、1893年(明治26年)の坪井正五郎以来であるが、広く知られるようにモースは大森貝塚を発見し、モースと谷田部は協力して小石川植物園の貝塚の発掘を行ったように、人類学を指向した学問分野も当初より考慮されていた。 このように、生物学科の動物学・植物学・人類学は発足当時は一体として運営されてきた。その後、帝国大学、東京帝国大学となり、やがて敗戦により新制東京大学へと変遷する間に、動物学科、植物学科と分離する傾向にあり、人類学科も1939年(昭和14年)に独立していった。いずれもわが国の各学問分野の創設に関わり、他の帝国大学ができるまでは、唯一の高等教育機関であった。発足初期においての世界的発見を一例挙げると、丁度今年度が百年目に当たる1896年(明治29年)の平瀬作五郎のイチョウの精子発見と同年の池野成一郎のソテツの精子発見であるが、近代科学の導入の初期段階にこのような重要な発見がなされたことは、もって銘すべきであろう。 動物学科は、モース、ホイットマン(C.O.Whitman)が短期間教授として滞在したのち、箕作佳吉以降日本人が教授陣を構成していき、1992年(平成4年)の大学院重点化の直前には5講座より構成されていた。一方、植物学科は当初の谷田部以来日本人教授陣により構成されていたが、やはり大学院重点化の直前には5講座であったが、生物化学科が創設された折に、植物学科より一講座が移籍されている。人類学科は、大学院重点化の時点では2講座より構成されていた。 生物学科に密接に関係する組織として、理学部附属植物園と臨海実験所があるが、植物園は理学部発足当初より理学部に属し、1902年(明治35年)には日光分園が設けられたが、現在地に移ったのは1911年(明治35年)である。臨海実験所は、1886年(明治19年)に設立され、その翌年に現在地の三浦市小網代に移った。いずれも、生物学科での教育プログラムにおいて重要な貢献をしている。
